最新のJAPANTEXはこちら

01 4月 2015

第6回 記憶に残る音

 みやじまなおみ
  わが家にオルガンがきたのは、まだ物心つかぬ頃。3歳年上の兄が幼稚園のオルガン教室に通い始めたのです。その付き添いで、母が2歳の私を連れ、ひざの上にのせてともにレッスンを見ていたそうです。
 それが、1年もしないうちに、兄が習っていた曲を見よう見まねで弾き出したという私。ときには兄より先に曲を覚えることもあったらしく、その昔ハワイアンバンドを組み本人いわく「大学生の身ながらゴーゴー喫茶でライブ演奏をして、社会人以上に稼いでいた」という父が大喜び。「この子は俺と同じ音楽の才能がある!」とのたまったのが、私がピアノを始めるきっかけでした。
 すぐに近所のピアノ教室に通い出し、オルガンとは別にアップライトのピアノがわが家にやってきました。
 
 もとオルガンがあった場所を奪い、リビングの一番いい場所を独占することに成功した私のピアノ。ところが、いざレッスンに通い始めると、基本中の基本である「音階」が理解できず、人生初の挫折を味わうことに。「何回、何十回、繰り返してもわからず、ドレミファソラシドを覚えるのに半年かかった」と、あとから母に聞かされました。
 それでも、一度覚えてしまうとコツをつかんだのか、猛スピードで教本を制覇し始めたそうです。ピアノの入門書の代名詞、別名「赤いバイエル」と呼ばれる「子どものバイエル上巻」に「黄色いバイエル」(子どものバイエル下巻)。余談ですが、この2冊には半透明の縦じま柄のカバーがかかっていて、使っているうちに端っこのほうからビリビリ破れてきてしまうのですが、子ども的にはちょっと高級感のある体裁をしていました。
 そして「メトードローズ」「ブルグミューラー25」「ツェルニー100番」「ソナチネアルバム」と続きました。その頃は、ピアノを弾くことが楽しくて仕方なかったですね。

 
 この写真はおそらく4歳か5歳。晴れの舞台で何を弾いたのか……まったく記憶にありませんが、髪につけたリボンとピンクのワンピースにこだわったのは覚えています(笑)。このあと、自分がまさか音高・音大に進むことになるとは、思いもよりませんでした。
 
 好きになると一途になるのは今も同じ。今、熱中しているのは和太鼓ですが、きっと当時も練習の虫になっていたのは間違いありません。
 家族はさぞうるさかったでしょう。いえ、ご近所にはもっと迷惑をかけたと思います。一般住宅で防音なんて当時は考えられませんでしたし、まだクーラーもなく、夏は窓もフルオープンで弾いていましたから。
 でも、ご近所から文句を言われたことは一度もありません。理由のひとつは、近所の女の子のほとんどがピアノを習っていたからです。当時はピアノブームで、習っていない子はむしろ少数派。日本は高度成長期のただ中にあり、大げさに言えば、どの家の窓からも「バイエル」が聴こえていました。
 私の親も含めて、当時の親たちは戦争体験世代です。母は幼い頃、四国の田舎の畑に寝転がり、上空を飛ぶたくさんの米軍機を眺めていたと言っていましたし、父は渋谷区の生まれで、小学生で山梨へ疎開したものの、栄養失調による肋膜炎になったと話していました。
 食べるものさえままならなかった時期に幼少期を過ごした親たちは、せめて自分の子どもには豊かな暮らしをさせたいと、躍起になっていたのかもしれません。
 ピアノだけでなく、女の子はリカ人形にダッコちゃんなど、みんなが同じお人形を買ってもらっていました。昼間はお人形ごっこ、夕方はピアノ、夜は家族で億万長者ゲーム、どの家庭も同じように恵まれた生活のゆとりを共有していたのです。
 
 昭和40年代、ピアノの音は豊かさの象徴であり、歓迎すべき音でした。
 わが家でも、日曜日の夜、食事が終わった一家だんらんの中に「ピアノの演奏」がありました。私がいっぱしのピアニストよろしく、うやうやしくお辞儀をして、練習中の曲を家族に聴いてもらうやさしい時間。ときには父が得意のウクレレを持ち出し、ピアノ&ウクレレを伴奏にみんなで歌をうたうこともありました。
 そのピアノの音が、いつのまにか忌み嫌われる音になってしまったのは、残念というほかありません。
 今、私の住んでいるマンションには「夜、7時以降の楽器演奏を禁止します」と張り紙が出されています。「子どものピアノの音がうるさい」と、住民からの苦情があったのだそうです。
 そういえば、和太鼓も本番以外は毛布をかけて練習していますし、本番もご近所からの苦情で何度か演奏中止に追い込まれています。
 なぜそんなに音に敏感なのかわかりませんが、そろそろピアノを再開したいと思っていた私にとっては、予想を超える高いハードルができてしまいました。いつでもピアノが置けるように床の補強だけはしてあるのですが……お金持ちになって、防音設備の整った地下レッスン室付きの豪邸でも建てるしか手はないのでしょうか。
 

みやじま・なおみ miyajima naomi
主婦ライター。有名人・著名人のインタビュー原稿を請負うほか、編集ライターとして40冊近い書籍の執筆に携わる。神奈川県横浜市の一戸建てで、家族5人、昭和40年代を過ごす。